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【気儘に】パトリオティズムあるいは日本の情緒と形

新年会御礼」(by店主戯言(浅草的思考))パトリ(地域)が目に留まる。「パトリオティズム」(「国家の品格」(藤原 正彦 (著))より)が記憶の片隅にあったからだ。以下抜粋する。
(注)著者は、冒頭で、こう述べているので注意して読んで下さい。「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」と。なんと、まあ、微笑ましい愛妻家な数学者なのですね。
追記:01/31 「べた店主戯言(浅草的思考)060102 桃知利男 建設業に貢献するIT化&考える技術!」に、このエントリが紹介されてます。ありがとうございます。。。ぴよぴよ(^_-)-☆

愛国心の二つの側面
P113 祖国愛に対しては、不信の目を向ける人が多いかも知れません。「戦争を引き起こす原因になりうる」などと、とんでもない意見を言う人が日本の過半数です。まったく逆です。祖国愛のない者が戦争を起こすのです。日本ではあまりよいイメージで語られない「愛国心」という言葉には、二種類の考えが流れ込んでいます。一つは「ナショナリズム」です。「ナショナリズム」とは、他国のことはどうでもいいから、自国の利益のみを追求するという、あさましい思想です。国益主義と言ってもよい。戦争につながりやすい考え方です。

 一方、私の言う祖国愛は、英語で言うところの「パトリオティズム」に近い。パトリオティズムというのは、自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきものです。ナショナリズムは不潔な考え方です。一般の人は敬遠した方がよい。ただし、政治家とか官僚とか、日本を代表して世界と接する人々は当然、ある程度のナショナリズムを持っていてくれないと困る。

 世界中の指導者が例外なく、国益しか考えていないからです。日本の指導者だけが「ナショナリズムは不潔」などと高邁な思想を貫いていると、日本は大損してしまう。安全や繁栄さえ脅かされる。一般の国民は、ナショナリズムを敬遠しつつ、リーダーたちのバランスあるナショナリズムを容認する、という大人の態度が必要になってくる。現実世界を見ると、残念ながらダブルスタンダードで行くしか仕方がないのです。無論、リーダーたちの過剰なナショナリズムへの警戒は怠ってはなりません。

「情緒」と「形」を重んじよ
P95 それではどうしたらよいのでしょうか。一つの解決策としてわたしが提示したいのは、日本が古来から持つ「情緒」、あるいは伝統に由来する「形」、こうしたものを見直していこう、ということです。

 論理とか合理を否定してはなりません。これはもちろん重要です。これまで申しましたのは、「それだけでは人間はやっていけない」ということです。何かを付加しなければならない。その付加すべきもの、論理の出発点を正しく選ぶために必要なもの、それが日本人の持つ美しい情緒や形である。それが私の意見です。

 論理とか合理を「剛」とするならば、情緒とか形は「柔」です。硬い構造と柔らかい構造を相携えて、はじめて人間の総合判断力は十全なものとなる、と思うのです。

自然に対する感受性
 それでは日本人の持つ情緒や形というのは、どういうものでしょうか。まず、真っ先に言えることは、自然に対する繊細な感受性です。かつて日本に長く滞在した外国人たちは、一様にそのことを指摘しています。昭和の初め頃、東京のイギリス大使館にジョージ・サンソムという外交官がいましたが、その奥さんであるキャサリン・サンソムという人が、『東京に暮らす』(岩波文庫)という本を書いております。(中略)彼女の本を読みますと、「自然への感受性や美を感じる心という点では日本人に勝る国民はいないでしょう」と書いています。(中略)

日本の庭師は世界一
 サンソム夫人が感動と共に記していることの一つに、日本の庭師の話があります。イギリスの庭師の場合、例えば、「楓を庭のあそこに植えてくれ」と注文すると、言われたところに穴ぼこを掘って、楓をポンと植えて、お金を貰って帰ってしまう。ところが日本の庭師の場合、まず家主の言うことを聞かないと言う。あそこに植えた方が良い、などと逆に提案してくる。そして一本の木をあらゆる角度から眺め、庭師自身もあっちこっちに立ち位置を変え、(中略)オーケストラの指揮者のようだ。「見ていてワクワクする」と書いています。

茶道、華道、書道
 お茶を考えても、イギリスではみんなマグカップにどぼどぼ注いでガブ飲みする。しかし日本人では、茶道というものにしてしまう。花の活け方も、日本では華道にしてしまう。字なんて相手に分らせれば済むものです。しかし日本では書道にしてしまう。あるいは香道なんていうのもありますね。香を聞く。なんでも芸術にしてしまう。柔道や剣道なども、美とか礼を重視します。諸外国の格闘技とはだいぶ趣が違います。

 自然への繊細な感受性を源泉とする美的情緒が、日本人の核となって、世界に例を見ない芸術を形作っている。「悠久の自然と儚(はかな)い人生」という対比の中に美を感じる、という類まれな能力も日本人にはあります。

変質した無常観
 無常観というのはもともと、インドのお釈迦様が言ったことです。お釈迦様の言う無常は哲学です。万物は流転する。永遠に不変なものは存在しない。どんどん変わってしまう。いまあなたがいる建物も必ずいつか朽ち果てる。あなたの周りの人間も百年後には誰もいない。何もかも永遠に同じ形を保つことはできない、という当たり前ともいえる哲学です(*)。

 日本人というのは何でも直ちに真似をして、それをアッという間に変質させ、自分ならではのモノにしてしまう天才的な能力を持つ国民です。漢字を真似してからあっという間に訓読みと万葉仮名、続いて平仮名、片仮名を発明して完全に日本のものとしてしまったのが好例です(*)。

 北インドから中国を通って日本に来た無常観も変質を遂げました。日本人の無常観は、「すべては変わりゆく」というドライな達観から派生して、弱者へのいたわりとか敗者への涙という情緒を生み出した。ドライな達観が、儚く悲しい宿命を共有する人間同士の連帯、そして不運な者への共感へと変質していったのでしょう。『平家物語』の中に、武士道の典型として新渡戸稲造の『武士道』の中でも引用される有名な場面があります。一の谷の合戦の際、熊谷直実が敵の平家の武将を捕まえた。殺そうと思って顔を見ると、まだ若い、十五歳の平清盛だった。

 自分の息子ぐらいの歳である若者を殺していいものかどうか。熊谷直実は思わず逡巡するわけですが、さすが平敦盛は「首を討て」と直実に命令します。直実は仕方なく首を討つ。その後、手にかけてしまった若者を悼んで、直実は出家してしまう。このような敗者、弱者への共感に涙。これが日本人の無常観にはある。お能の「敦盛」が今でも延々と演じられているのは、こういう無常観、武士道でいう惻隠に近いものが今も日本人の心に流れていて、心を揺さぶられるからでしょう。

もののあわれ
 この無常観はさらに抽象化されて、「もののあわれ」という情緒になりました。日本の中世文学の多くが、これに貫かれています。すなわち人間の儚さや、悠久の自然の中で移ろいゆくものに美を発見してしまう感性です。これは大変に独特な感性です。物が朽ち果てていく姿を目にすれば、誰でもこれを嘆きます。無論、欧米人でもそうです。しかし、日本人の場合、その儚いものに美を感ずる。日本文学者の「ドナルド・キーン氏によると、これは日本人特有の感性だそうです。儚く消えゆくものの中にすら、美的情緒を見いだしてしまう。

 十年ほど前に、スタンフォード大学の教授が私の家に遊びに来ました。秋だったのですが、夕方ご飯を食べていると、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。その時この教授は、「あのノイズは何だ」と言いました。スタンフォードの教授にとって虫の音はノイズ、つまり雑音であったのです。

日本人に特有な感性
 虫の音に対する日本人の感性については、ラフカディオ・ハーンも「虫の演奏家」という随筆で触れています。日本人は虫の音を音楽として聴き、そこにもののあわれさえ見いだしている。この、欧米においては稀にみる詩人だけに限られた感性を、日本ではごく普通の庶民でさえ、ごく当たり前に持っている。秋になって遠くから鈴虫の音が聞こえてくると、心を洗われ、秋の憂愁に心を静ませる。このようなことが古代から日常的に行なわれている(it1127註;でも私には日常的な意味でこの感覚はない、そういえば昔の人はそうだったみたいねって感じです(*))。(中略)

 三年くらい前、日本の中世文学を専攻するイギリス人が我が家に遊びに来ました。私は「日本の中世文学を勉強するうえで何が難しいですか」と訊ねました。彼はただちに「もののあわれだ」と答えました。「もののあわれというのはイギリスにはないんですか」と私が訊いたら「勿論あります。あるけれど、日本人ほど鋭くない」と言う。従って「もののあわれ」に対応する英語は存在しない。それに近い英語も存在しないそうです。

 人間というのは、何かに対して感性が研ぎ澄まされていると、必ずそれを言語化する生き物です。例えばエスキモーの間では、雪に関する言葉が百以上あると言います(*)。東京でも、牡丹雪とか細雪とか粉雪とかドカ雪とか、色々あります。新潟へ行ったらもっとたくさんあるでしょう。それでもエスキモーほどではない。だから、雪に対する感性では、日本人はエスキモーに負けてしまう。

 しかし、悠久の自然と儚い人生との対比の中に美を発見する感性、このような「もののあわれ」の感性は、日本人がとりわけ鋭い。おそらく世界中の人が持っている感性なのでしょうが日本人がとりわけ鋭い。このように思うのです。

桜の花に何を見るか
 この日本人の感性の鋭さの一例が、例えば桜の花に対するものです。桜の花は、ご存知のように本当にきれいなのはたったの三、四日です。しかも、そのときをじっと狙っていたかのように、毎年、風や嵐が吹きまくる。それで「アアアー」と思っているいるうちに散ってしまう。日本人はたった三、四日の美しさのために、あの木偶の坊のような木を日本中に植えているのです。

 桜の木なんて、毛虫はつきやすいし、むやみに太いうえにねじれていて、肌はがさがさしているし、花でも咲かなければ引っこ抜きたくなるような木です。しかし日本人は、桜の花が咲くこの三、四日に無上の価値を置く。たったの三、四日に命をかけて潔く散っていく桜の花に、人生を投影し、そこに他の花とは別格の美しさを見出している。だからこそ桜をことのほか大事にし、「花は桜木、人は武士」とまで持ち上げ、ついには国花にまでしたのです。(中略)

紅葉の繊細さ
 紅葉についても同じことが言えます。これも二年ぐらい前ですけれども、ケンブリッジ大学の数学の教授が、蓼科にある私の山荘を訪れました。その人は整数論の世界的権威で、フィールズ賞も貰っている数学者です。ちょうど秋だったので、紅葉狩りに連れて行きました。そしたら彼は「ほんとうに美しい」と驚くのです。「アメリカやイギリスでも紅葉を見たことがある。ところが、三時間車をとばしても、右も左も真っ黄色というような単調さだった。日本の場合は、日当たりや、山のどのあたりにあるかで色や鮮やかさが異なり、とても美しい」と。

 しばらく一緒に歩いていると、「一つ気づいたことがある」と彼がつぶやきました。「日本の楓の葉は、非常に繊細で華奢だ。欧米の楓の葉は、もっと大きくて厚ぼったい。そのせいか色の変化が大まかだ。それに比べ日本の楓の葉は、薄く繊細なうえ、一つの木にも紅い葉、オレンジの葉、緑の葉などがあり色彩が豊かだ」と言うのです。

 楓に見られるように、日本というのは自然そのものが非常に繊細に出来ている。豪快さにはやや欠けますが、山も川も谷も木々も花も何もかも、非常に繊細に出来ている。その上、四季の変化がハッキリしています。こんな国は珍しい。(中略)

P107 日本は四季がはっきりしています。そのせいか植生が非常に豊かです。サンソム夫人も前掲書で、日本には熱帯インドにある樹木から白樺など北欧の木まで実に種類が多いと言っています。植生ばかりではありません。ハーンは美しい音色の虫が日本には非常に多いと言っています。私の経験でもそう思います。そのうえすべてが繊細微妙に出来ている。このような、神の恩寵とも言うべき特異な環境の中に何千年も暮らしていると、自然に対する感受性というものが特異に発達する。この感受性が、民族の根底に年月をかけて沈殿している。そのように思えるのです。

 「もののあわれ」の他にも、日本人は自然に対する畏怖心とか、跪く心を元来持っている。欧米人にとって自然は、人類の幸福のために克服すべき対象です。しかし、太古の昔から日本人で、「人類の幸福」などと言う目的のために、「自然を征服すべき」などと思った輩は一人もいない。自然というのは、人間とは比較にならないほど偉大で、ひれ伏す対象だった。

 自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。だからこそ神道が生まれた。この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。「人類の幸福のために自然を征服する」などというのは、手に負えない人間の傲慢です。そもそもそんなことを言い出したら、地球環境は破滅に向かってまっしぐらとなります。

俳句が呼び起こすイメージ
 さらに日本人は、自然と心を通わせるという得意技を持っている。俳句などは、その好例です。森本哲郎氏の本で読んだのですが、彼がドイツを旅行していた時、列車の中でこんなことがあったそうです。彼は芭蕉の俳句集を読んでいた。前に座ったドイツ人大学生と会話が始まった。「何を読んでるんだ?」「俳句だ」「俳句って何だ?」となったので、「枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ」という句を訳してあげた。「枯れ枝に烏が止まっています。秋の暮れ」とね。するとその学生は、こう言ったそうです。「それで?」欧米人にとって、「枯れ枝に烏が止まっています。秋の暮れ」では、ストーリーが何も始まっていない。だから、「それで?」と聞き返してしまう。

 しかし日本人で、「それで?」なんて聞き返すものは一人もいない。聞いた瞬間に誰でも、沈む夕日を背に、枯れ枝がスッと伸びていて、烏がポツンと止まっているいる姿が思い浮かぶ。そして秋の憂愁が村全体、町全体、国全体を覆っていくイメージが直ぐに湧く。

蛙が一斉にドバッと?
 「古池や 蛙飛び込む 水の音」という、日本人なら誰でも知っている芭蕉の句がありますね。日本人なら、森閑としたどこかの境内の古池に、蛙が一匹ポチョンと飛び込む光景を想像できる。その静けさを感じ取ることができます。しかし、日本以外の多くの国では、古い池の中に蛙がドバドバドバッと集団で飛び込む光景を想像するらしい。これでは情緒も何もあったものではない。

 このように自然に心を通わせられるような、素晴らしい感性を日本人は備えています。それを思えば台風や地震や洪水といった自然災害にすら感謝したくなります。こうした自然災害に「」おかげで、自然にひれ伏す気持ちが生まれ、無常観が発達し、もののあわれとか自然と心を通わすような情緒につながったのですから(*)。

「懐かしさ(*)」という情緒
 もう一つ、日本人の誇りうる情緒として、「懐かしさ」があります。これも非常に高級な情緒です。もちろんアメリカ人だって、生まれ育ったホームタウンを懐かしがります。しかし、アメリカ人はしょっちゅう引っ越す。したがって、日本人が毎年お墓参りをするような、先祖代々の墓などない。そんな事情もあり、ホームタウンへの郷愁は淡いものです。

 一方、日本人の郷愁は、緊縛感とでもよべるものを伴った濃厚な情緒です。いかに濃厚かは、懐かしさを歌った文学が山ほどあることからも明らかです。万葉集の中には防人の歌をはじめ郷愁を歌ったものがかなりありますし、近代短歌でも石川啄木や斉藤茂吉などに多くある。俳句では与謝蕪村、詩の世界でも萩原朔太郎や室生犀星の名前がすぐに挙がります。このような文学をたっぷりと子供に読ませないといけません。故郷を失った人々が多い現今、これは非常に重要と思われます。

四つの愛
 この懐かしさという情緒は、私の呼ぶ「四つの愛」の基本になります。「四つの愛」とは何かと言うと、まず「家族愛」です。それから「郷土愛」、それから「祖国愛」です。この三つがしっかり固まった後で、最後に「人類愛」です。順番を間違えてはいけません。家族愛の延長が郷土愛、それら二つの延長が祖国愛だからです。日本ではよく、最初に人類愛を教えようとしますが、そんなことがうまく行くはずがありません。「地球市民」なんて世界中に誰一人いない。そんなフィクションを教えるのは百害あって一利なしです。まずは家族愛をきちんと教える。それから郷土愛。それから祖国愛です。このうちどれかが欠けていたら、世界に出て行っても誰も信用してくれません。

-------------------------------------抜粋終了。

ということなのですが、今の日本人、自分も含めて特に若い世代に、伝統的日本の心が、果たして、育まれて、刻み込まれているでしょうか?はなはだ疑問です。昔と今とでは生活環境もだいぶ違います。そっくりそのまま受け入れられないにせよ、本質的な部分では変わらないはずですから、工夫次第で、伝統的日本の情緒を教えられないこともないのかな、とは思います。個人的趣味としては、伝統的日本の情緒は、知らないだけに好きですけどね。

国家の品格 情緒と形」につづく。

■関連ページ&サイト
・「おもかげの国うつろいの国(四)」(by it1127)
・「サピア・ウォーフの仮説」(by it1127)
・「おもかげの国うつろいの国(一)」(by it1127)
・「方丈記」(by青空文庫)

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Comments

いえいえ、どういたしまして。
で、こんどは、全部抜粋しろと。というのは冗談(笑)
そうですね、科学でない限り、一部とか全部関わりなく、解釈が入ってしまうのは仕方ないことなのでしょう。
同じ色なのに背景が違うと違う色に見えてしまうわけです。
個人個人背景が違うわけです。その程度の差によって問題が起こったりするんだと思います。

藤原正彦氏は、この著書ではじめて知ったのですが、

「もっとも、いちばん身近で見ている女房に言わせると、私の話の半分は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが、そういう意見のあることはあらかじめお伝えしておきます」

と、わざわざ断りを入れるような人です。頑固を装った頭の柔らかな人だとお見受けします。
ですので、みすみさんのお気持は察しますが、それほど心配なさることもないのかな、と心得ます。

ざっと、こんな感じです。本がお好きとのこと、またよろしかったら、お立ち寄りくださいませ。

Posted by: it1127 | 2006.02.20 at 11:53

ご丁寧な回答をありがとうございます。

ここまでお考えだと察することができず、失礼な質問をしてしまったと思っています。
私が藤原正彦氏を好きだということも加担し、よく考えもせずコメントしてしまいました。

この問題とは別に、「一部抜粋」には誤解を与える危険があると考えています。

本は一冊を通して初めてその主張の全体が見えるわけで、
一部を見せるという行為は、見せ方によっては
著者の意図とは全く異なる解釈を生み出してしまうのではないかと危惧の念を抱いています。
そんな心配不要であることを願っています。

余談ですが、私は本が好きです。
紙の感触、ページをめくる感触が好きです。
右手のページの量と左手のそれのバランスが徐々に逆転していく感覚も。
PCのディスプレイを長時間見ると目の疲労が半端ないですが、
本なら(限度はありますが)いくらでもいけます。

Posted by: みすみ | 2006.02.20 at 02:16

みすみさん コメントありがとうございます

質問のご主旨は、「本の抜粋は出版社の不利益になるので、悪しき行為ではないですか?」と勝手に解釈して、お応えします。

判断は出版社にして頂こうと思っています。

私も最初、その辺どうなのかなー、と思って出版社に問い合わせしようと思ったのですが、もし「ノー」といわれたら、抜粋を我慢しなければならず、ストレスがたまるなーと思い、出版社にお伺いを立てることをやめました。

そのかわり、自分の思いのままにやって、出版社からクレームが来たら、そのとき対処しようと思っています。

私は、WEBは図書館だと思ってるんですね。バネバー・ブッシュとかテッド・ネルソンの影響です。

写真集などの過分な抜粋は流石にまずい(短時間で用済みだから)と思いますが、読むのに時間がかかる本の場合ならたぶん大丈夫であろうと、出版社の不利益よりは公共の利益になるであろうと、ひょっとしたら出版社の利益にもなるであろうと希望的観測を抱いている次第です。

蛇足ですが、本好きな人間としては、本は単なる知識を得る以上のものがあるんですね。紙の匂いであったり、めくる音であったり、指先の触感であったり、飾って眺めてみたり、さまざまなところに心地良さを感じてしまうんです。

あと、ご参考まで「日本でも図書館の全蔵書のデジタル化は始まる?」
http://blog.a-utada.com/chikyu/cat2248220/index.html

米アマゾン・コムの全文検索機能についてアメリカの著作者団体がすでにクレームをつけたように、辞事典や料理の本などページをまるごと見られてしまったら打撃を受ける本もあるだろう。そうした本については出版社が検索表示を断わればいい。しかし、総じて言えば「読まれてしまったら売れない」というのは、「立ち読みさせなければ本がもっと売れる」と言っているのと同じだろう。コミックスなどは実際にラップして立ち読みできないようにしているが、それ以外のほとんどの本はしていない。それは、本のビジネスにかかわる大多数の人間が、「立ち読みさせなければ本がもっと売れる」とは考えないからだ。本は手にとって読ませて売るもの、というのがこれまでの本のビジネスだったし、デジタルの時代になっても(どのように「立ち読み」させるかは考えるとしても)基本的には同じだろう。中身がわからなくても売れる本は限られている。

Posted by: it1127 | 2006.02.17 at 13:54

本から抜粋し過ぎてはありませんか?
どうお考えでしょうか?

Posted by: みすみ | 2006.02.17 at 11:40

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