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■おもかげの国うつろいの国(四)

NHK人間講座『おもかげの国うつろいの国』(松岡正剛) 注:このブログに書かれていることは、必ずしも講座の内容に忠実ではありません。講座を聴講して思ったことを書いたものです。

 今回は、第四回『無常と「はかなさ」をめぐる』です。一回目と同じ天竜寺宝厳院からの講義でした。テーマは「うつろい」です。

   花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 小野小町

 自然(花鳥風月)/心/世の中、の「うつろい」を詠ったものです。「うつろい」の感覚、「無常感」は、今でも、というより、より一層、身近に感じられる感覚のような気がします。古来より、さまざまな表現の場で、扱われた「うつろい、無常感」、その「はかなさ」に何を観るのか、それは「嘆き」なのか「諦め」なのか「期待」なのか、そんな風に思いながら、この「感覚」を眺めてみました。

■「うつ」と「うつつ」を巡って

 空、、全、これみんな「うつ」と読みます。「うつ」は、なにも無い、実際ではない、これが面白いのですが、すべて、を意味します。「うつつ」は、「現」で現実です。虚/実、無/有はちゃんと繋がっているのです。表と裏の関係、ネガとポジの関係のように、単に反対というわけではなくて、無は有を、虚は実を、孕んでいる、と考えられます。「古代的なウツを巡る観念には、一時的な「負」の状態こそが「正」を予兆させるという見方が孕んでいる」と松岡氏はいいます。ぼく的には、カオス/秩序の構図ですね。

  「うつ」->ウツロー>ウツロイー>ウツシー>「うつつ」

これは、無いものから有るものが生まれるプロセスです。最近の言葉で言えば創発(emergence)です。

 ウツロ舟 -- 丸太の中をくり貫いた丸木舟
 ウツセミ -- セミの脱げ殻
   脱げ殻は、セミを予感させます
 ウツロイ -- 一回目で説明されましたが、
         押さえつけても滲み出て来てしまうというような、
         単なる変化ではない、創出という意味合いがあります
 ウツシ  -- ウツロって出て来たものが、何かに写(映)しとられて、宿る、
          という意味合いがあります

この「うつ」と「うつつ」、「無」と「有」の間を行ったり来たりする(松岡氏曰く、リバースモード)の運動のなかに、何かを見出し感じる美意識が、日本人の心にあると、松岡氏はいいます。

  渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ  藤原定家

これは、余情(よせい)とか有心(うしん)といって、有りそうもないけれど有って欲しいものを表現し、そこに美を感じる意識、心を表した、典型的な歌です。この美意識は、茶の心に繋がっていくのだそうです。茶の湯の心は、どんどん余計なものを無くしていって、なにも無いところに何かを感じようとする心だそうで、千利休はこの藤原定家の心こそ茶の心だといったそうです。

■「はか」を巡って

 「はかどる」「はかばかしい」「はかがいく」というように「はか」は、事態の進捗の単位を表します。ですから「はかない」は、本来は負のイメージです。けれども、唐木順三さんは、「はかなし」の持っている積極的な意味を強調します(『無常』)。男が世の中で発揮している「はか」の成果に対して、女たちが「はかなし」だってそれなりの心や美をもてるのではないかという「発見」をしたそうです。女文字から仮名が生まれたことに似て、またしても女性文化の重要性を、松岡氏は指摘しています。

 花鳥風月、人の心、世の中のできごと、すべて「うつろい」易く「はかない」ことばかり。だとしたら、「はか」が無いところに「むなしさ」を感じながらも、それを背景に追いやって、美しいもの自分の望むものを浮かび上がらせて、美として楽しむ心をもった方が、有意義なのではないか。そんな心が、先にあげた「余情」であり「有心」に繋がっているのだと思います。

■諸行無常を巡って

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし、猛き者についには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ『平家物語』
 いまなら、「負け犬」の「たわごと」だといってバカにされそうですが、「滅びの美学」を感じるし、惹かれますね。それに上品だし。

 「うつろい」や「はかなさ」は、仏教思想に繋がっています。「無常」です。「世間虚仮」「唯物是真」です。

 此岸(here)  厭離穢土 汚らわしい、ひどい世界
 彼岸(there)  欣求浄土 あこがれの世界

 浄土思想を広めたひとつに、天台本覚思想があるそうなんですが、「草木国土悉皆浄土」とか「山川草木悉皆成仏」といって、何処かしこに浄土は存在するという考え方です。いま流に言えば、浄土の携帯化です。こうして、無常感は仏教思想から、身近な生活や遊芸の分野に広がっていきました。絵画や仏像彫刻がさかんにつくられただけでなく、能や連歌茶の湯の分野でも無常感は取り入れられその題材となっていったというわけです。

<<第3回、第5回>>

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