■儀礼的無関心のロンド
♥[E]ウェブログ@ことのはvs[F]TRiCK FiSH
-- ウェブログ:覗く人・覗かれる人 それぞれの思い --
E氏の記事で展開されたコメントを介した対話が面白い
その後、F氏がどんな反応を見せるのか楽しみににしていたのですが、
見事な反応を見せてくれました。まさに魅せてくれました
どんなに『不毛な話題』でもここまで対話が交わされると、
それ自体が有意義になってしまうという実例を目の当たりにして、今朝は少々興奮しました
アドレナリンが久々に分泌されました
わたしは、きっとF氏は完封負けの弁
例えば、いやぁ~。浅はかでした、私の腐った性根。何卒ご容赦をくらい言ってくださるのかと思っておりましたら、なんと、またまた反論
さすが、全面反論ではなく部分反論。なんとしてでも自分の主張を擁護したいのですね
ある意味、自分の主張に誠実であるという点では賛同したくなってしまうほど
往生際がよろしくないというか、諦めが悪いというか、執念深いというべきか
なんだか哀れにさえ思えてくるのでした
しかし、この詭弁家のF氏は全くどうしようもない人間なのです。相手によって態度が全くちがうのです
「ある女性と見られる」人に対しては媚を売るし、「私」に対しては失礼な言動をするし
どういう性格の人なんでしょうね
実際お会いしたら、結構まともないい人だったりして
結局、テキストによって振り回されているのは、周りの人間たちなのだ
人間によって生みだされたテキストは、今度は、人間を弄ぶ
なんとも皮肉な話だ
[関連:1、2、3、4、5、6]
儀礼的無関心あるいはリンクにまつわる自分の記事[1、2、3、4、5、6]
【追記:3/23】
・宇園まこと:『続・「無断リンク禁止/直リンク禁止」命令に関する想定問答集』[Q44]
追記:[2/7/19:31] 以前から、上記文脈とは関係なく気になっていた「儀礼的無関心」にまつわる思い
この言葉を聴いたとき、どこかでこの類のコトに触れた本を読んだという記憶があって、
それが何の本だったかまでは思い出せずいたのですが、やっと見つけました
小泉信三「平生の心がけ:デリカシイ:p96」[関連2と同じ]これがデリカシイというものだろう
何時か外国の雑誌でこういう写真を見た。
イギリスの、たしかバッキンガム宮の園遊会か何かの折の場面であった。広い庭園の中の道路を、多数の着飾った男女が、長く続いて参入するところである。一人の、やはり客の一人と見える婦人が、脳貧血でも起こしたのか、路傍に倒れている。同行者、また係り員と覚ぼしき二三人のの者が、それを介抱している。こういう晴れの場所での、この不時の出来事に、当人は勿論、同行の者の困惑は、察するに余りある。ところが、その前を通過する多くの男女が、誰一人その方を見向いているものがいない。それがハッキリ写真で分る。編輯[集]者も、特にこういう場合のイギリス人の訓練を認めたのであろう。説明書きに、そのことに注意を促す文言があった
デリカシイという名詞の本であるデリケイトという形容詞は、繊細とか微妙とかの意味があり、デリカシイは、かくあることを意味するのであるが、それから進んで、人の当惑や赤面に対する心遣い、人を当惑させず、赤面させず、赤面するような場面に臨んでは、赤面する人のほうを見向かぬというような、平生の心がけを指して言う言葉ともなった。人前で倒れている婦人のほうを振り向かないのは、何も冷淡で不親切だからではない。自分がその身になって見れば、こういう場合、一人でも人に見て貰いたくない。人も同様観られたくないに極まっているから、その方を見ない。よし観ても見ない振りをする。これが文明社会の人の当然の心遣いである。この心遣いの欠けた行為が、すなわち心無き振る舞いといわれるものである。心無き振る舞いという適切な言葉があるのをもって見れば、日本の社会も、嘗てそういう心がけを尚んだのであろう。それが今は屢々[しばしば]忘れられているように見えるこうしてみると、F氏がいかに儀礼的無関心を誤用したかが覗える見たいものを見るのは人の権利かも知れぬ。しかし人の観られたくない状態を見ないことも、また吾々の義務である。法規は兎に角、吾々の心は吾々にそれを命ずる。人にせられんと欲するごとくその如く人にもせよ。深く考えるまでもなく、これはすぐ分る筈のことである
追記2[2/7/22:05][StarChartLog@cocolog:「儀礼的無関心」に関するメモ][関連3] 「社会的相互行為」より
相互行為リスク
しかし、運用の問題だけが、相互行為の脆さなのではない。むしろそれは、組成それ自体において破綻の可能性を孕み、参加者にある種のリスクを負わせている。相互行為儀礼
例えば、通常、私たちは話しかけられればこれに応じる。しかしこれはリスキーな事態である。場合によっては、身体的、社会-心理的な面倒(恐喝、懇願、勧誘、侮辱、詐欺、等々)に巻き込まれかねない。一方的にまくし立てられたり、かみ合わない話をさも楽しげに続けられたりもする。・・・・(中略)・・・
といって、むげに拒絶もできない。話しかける方も相応のリスクの中にいるからだ。その人は意を決して私たちのテリトリーに入ってくる。相手の都合を考えない図々しいやつ、等と評価されかねないリスクも犯しながら。彼/彼女は私たちに向かって回路を開き、それ以外を閉じる。だから、これを私たちが拒絶してしまうと、その人は一時的に社会的交流の世界から放り出されてしまう。「やあっ!」と声をかけた相手が人違いだった場合のバツの悪さを考えてみればいい。これはリスキーだ。しかも、事態は私たちにとってもリスキーである。何しろ、これを拒絶してしまうと、今度は私たちの方が、リスクをおして話しかけてきた人をおもんばかれないやつ、等と評価されかねない。だから、とにかく相互行為するよりない(キャッチ・セールスなどにはそれが狙い目となる)。
もちろん、私たちはいつもこんなに自閉的ではない。知人の姿をみつければ嬉しいのが普通だし、それこそ“自動的に”対応する。しかし、このような相互行為リスクが顕在化するケースは実に多い。自室の電話が鳴った場合を考えてみよう。込み入った仕事、トイレの中からでも、あわてて出てきて受話器をとる。が、何かの勧誘だったり、悪戯電話だったり、やたらと話の長い友だちのお喋りだったりする。それも一方的に相手の話が始まって、延々付き合わされたあげく、切るに切れない。で、留守番電話で対抗する。と、かけてきた方が戸惑う。相手の都合を考えない図々しいやつ、等と評価されかねないリスクを押して電話してきた彼/彼女は(このことの自覚のない人は幸福だろう)、普通なら最初のうちは探りを入れる(誰でも話し方や声のトーンがいつもとは違う)。しかし、留守番電話だとこれが“空振り”になる。探りや配慮がその場で受け止めてもらえない。しかもこの戸惑いそのものも後から(ことによるとそのすぐそばで)相手に聞かれる。
私たちは相互行為リスクの中にいる。やりとりの開始そのものがリスキーであり、展開の過程がまたひとつひとつリスキーである。もちろん、その処理は相互的な営みの中でなされるが、またそのことが新たなリスクを生んでいく。相互行為とは、まさにリスクを幾重にも孕みながら展開していく壊れ物である。だが、意識し過ぎることがむしろ“病的”だと言われるくらいに、普段はこのことに自覚がない。リスク処理のために、ある種の文化の発明が機能しているからだ。先に述べた相互行為の回路と技法は、私たちが習熟を求められる(=社会化される)そうした発明のひとつである。ここではさらに、相互行為そのものを相互行為として成立させる、「相互行為儀礼」に言及しておこう。むしろ、これら二つの概念の方が「儀礼的無関心」より適切な気がするのだが
その最たる事例は、始まりと終わりの定型句的挨拶である。「あら、どちらまで」「ちょとそこまで」に、内実的に意味はない。それはむしろ、ただ単に、共在の底流に相互行為の世界が顕在化したこと(あるいは終わったこと)を告げているだけだ。もちろんそれは、話しかける方についていえば、受け手の都合が悪ければ逃げ道を用意しておくといった性格のものであるし、受け手についていえば、話し手の配慮を察しつつも適当な距離と余地を残して逃げ道を確保しておくといった性格のものである。一方が防御しつつ踏みだせば、もう一方が保護的に受け止める(受け流す)。そしてまた一方は、相手の保護的察しを察しながら自分の話を続ける。相互的な配慮と、このことを表現する慣用的行為の重なり、そのような相互行為の儀礼的足場の上に、やりとりが進行することになる。
言い換えればそれは、相互行為は相互尊重の過程――“顔”の立てあい――として進行するということでもある。つまり、相手から一歩引いておくこと(回避儀礼)によって、あるいは、尊敬語等による直接的な表現(呈示儀礼)によって、相互行為者は互いに表敬する。と同時に、同様なことを相手ができるように、自分の外見と振る舞いに気づかい、品行を整える。互いが“顔”をつぶさぬよう、場を台無しにしないよう、相互尊重の対人儀礼を守り続ける、そこに相互行為が成立する。
こうして、相互行為は、相互行為者それぞれが相互行為儀礼に則って互いに尊重しあうことを通して初めて相互行為となる。脆く壊れやすい、リスクを孕んだ相互行為は、儀礼という枠組み、もくしは重しによって、かろうじてその姿を保つのである。


Comments
そうなんですよ。スゴイでしょう
故に面白かった。突っ込みどころ満載で
で、いちいち突っ込んでたら、一生それやってないと終わらない気がしたもんで、簡単に抽象論で済ましました
Posted by: it | 2004.02.11 at 22:58
「ことのは」のコメントであんな展開が繰り広げられているとは。
「他者の自由を侵害する自由」は認めないが「(合法的に)他人を傷つける権利」は認めろ、ってすごい話ですね。さすがだ。
Posted by: tsupo | 2004.02.11 at 22:33
コメントいただきありがとうございます。
>これが文明社会の人の当然の心遣いである。
当然のことに気づいたり実行したりするのは難しいですね。
ちなみに「?」には、「は死」が入ります。
Posted by: maki | 2004.02.09 at 00:58